あとたった一つの努力

  一昨日書いたブログ、『あの頃、君を追いかけた』についての記事、この記事に書かなかったことがあります。それは、2回目を観そうだな、と思ったから、その時に書こうかなと思っていたこと。ただ、初見としての感想を持つ今、それを残しておこうかなと、思います。

 

  今から書くことは、ちょっとばかりかしこまって言うと ”考察” 。僕が初見で思った、この作品のメッセージの話をしたいと思います。

 

  この作品を観た・観てないに関わらず、自身のイメージを大事にされる方は、この先、各々ご配慮くださいね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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  『あの頃、君を追いかけた』、「あの頃」が示す ”過去” も、「追いかけた」が示す ”過去” も、どちらも満足し振り返る過去ではなく、過去という言葉が示す「過ぎ去る」胸苦しさを表している、非ハッピーエンドの作品。非ハッピーエンドである目の前の繋げられなかった世界、ハッピーエンドである繋げられたはずの世界。その境目がなんだったか、そこに想いを込めた作品、そう思います。

 

  その境目、雨の中立ち去っていく浩介を引き留められなかった真愛、真愛の言葉に相対し真愛の前から立ち去ってしまった浩介、その場から離れず涙する真愛のその涙を拭えなかった浩介、このどれか、いやどれもが境目となった行動なんじゃないかって思わされます。でも、僕はこの行動自体がこの作品そのもののメッセージではないと、思いました。

 

  真愛が浩介と別れた理由、それは「不安」でした。不安って、その物事に触れて入っていったときに、初めてその物事に対して持つ感情です。そして、その物事に求められるいる分に達しない分がそのまま不安になる、と僕は思っています。だから、やったことも無い、知りもしないことへの不安って、それを回避する以外に消えることは無い、そう考えてます。入っていく物事が「人」だったとき、それはその人に深く入っていこうとしたとき。その人に対して不安感を憶えたら、それはその人のことを知れていない。その人のことを知れていなければ、不安になる。真愛は知られていない自分のことに対して不安になった、だから「自信がない」が理由になってしまったんだと、僕は思います。

 

  浩介と真愛は、お互いにある問いかけをぶつけ続けます。「勉強、数学を学ぶことに何の意味があるのか」「格闘技、人を殴ることに何の意味があるのか」これは、浩介が真愛を、真愛が浩介を知るための問いかけ。初めから、二人はお互いのことを知ろうとしていたんです。

 

  浩介は真愛を知るために、数学の勉強を頑張った。真愛は浩介を知るために、格闘技の試合を見に行った。でも、真愛は結局、浩介のことが分からなかった。人を殴ることの意味は、結局分からなかった、僕はただこれだけのことじゃないんじゃないかなと思います。真愛が不安になる理由、数学の勉強を通じて、自分のことを分かってもらえたかと思っていた浩介が、私に対して選んだものが、結局分からなかった格闘技だった、そうなんじゃないかなぁと思います。この描写は直接出てはきません。その代わりに使われていた言葉、それが「幼稚」。真愛の「不安」に対する投げかけが「幼稚」なんじゃないかなって、考えているとそう思います。

 

  最後に、これがこの作品の答えだなと思ったシーン。浩介と真愛が別れた後、陽平が真愛に詰め寄って発したこの言葉。「もっと知ってもらうために話したい」。この言葉を受けたときの真愛の表情、そしてこのシーンそもそもの存在意義、あぁこれなんだって思いました。「相手を知り、お互いを知る」だけじゃないんです。

 

  お互いが望んでいた世界に繋げるためのあとたった一つの努力。これは浩介がやらなければいけなかったこと、だけじゃない。真愛もやらなければいけなかったこと。どちらかがこの努力をできていれば繋がった世界が目の前にあったかもしれない。もちろんどちらもこの努力が必要だったかもしれないけど、でも、必ず必要だったあとたった一つのこと。

 

この作品のメッセージは、

「大切な人に自分を知ってもらうこと」

これなんだなって、思いました。